昭和53年08月23日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
梅の花の信心は、あの世にも持っていかれ、この世にも残しておけるという、御神徳を頂く信心だと。桜の花の信心は、まあ一時的にはおかげを頂いても、それがぱあっとこう散ってしもうて、実にもならないと。言うならおかげ信心だという風にまあ、私は何時も申しますけれども、例えば辛抱しておっても、その肝心要の焦点を間違えて、いかに辛抱しても、苦労しても、それが必ずしも梅の花の信心、いわゆる御徳を受けれる信心とは言えないと言う事を、昨日からつくずく感じるんです。
昨日ここ一両日、あの内村鑑三という大変有名なキリスト教の、無教会主義の先生で、世界的に有名な先生であった。いわゆる平和主義を唱え続け、そういう運動にまあ傾倒された方でもあるわけです。ところがあの昨日お風呂入ってから、久富先生からここ一両日の内村鑑三かね。内村鑑三内村鑑三と言うて、先生の話が出ますが、あの先生に若い時に師事しておったのが、あの内村鑑三先生ですと言うて、風呂の中で、久富先生が話されますもん。若い時には先生あえてこの、説教して回りよりなさったんです。
あの布教のですね、キリスト教の話をして廻りよった。そら勿論若い時。それでその内村という先生は、大変立派な方であったと言う事ですけれども、私は始めて合楽にご縁を頂いた時に、もうその頃はキリスト教はなさっておられなかったんですけれども、あの椛目で当時言われるお話は、これはキリストもここは説けなかったとこだと言う事が、一番あの感じたという話を、昨日しておられました椛目の時代ですね。そしてその内村鑑三という先生が、晩年は非常に淋しい亡くなり方をなさったと言う事です。
その内村という先生が、一生をキリストに捧げられて、そしてキリストの道を説かれて、そしてその人独特の、いうならば無教会主義と言った様な生き方をなさり、平和世界平和に貢献せんとして、一生をその運動に捧げられたけれども、何一つ実らなかったと言う事なんです。今もその無教会主義の教えが、今あるかどうか知りませんけれども、いわゆる先日末永先生が、あのラジオで聞いておったら、内村先生の話が出ておったが、晩年に言われた三つの事柄の中の一つに。
もし自分がキリスト教者でなかったら、もう少しはましな、人間的な生き方が出来たものであろうにと言っておられる。そら例えば人間的と言う事がです、飲んで食うてちょいと言った様な生き方じゃないです。人間的いうならばいうならば人間らしい生き方。まあ、合楽で言われておるのがそれだと思うんです。ああしてはならん。こうしてはならんと言うて野放図にというのではなくて、例えばほんなら食事訓でもそうです、人の命のために与えてくださる食物であるから、お粗末にはしてはならない。
同時に大酒大食は絶食の元になるから、適当にいただかなければならない、そういう生き方なんです。自分を律していく治していくところの生き方なんです。そしてああはしてはならない。こうはして酒は飲んじゃならない。はあこれはしてはいけないと言った様な、大変難しいものではない。金光大神の教えというものは、本当に人間が助かるための宗教だというふうに私は申します。もう最近はまさしくその通りであるし、合楽で言われるところの信心と言うのが、本当に世界平和に貢献できれる内容。
世界人間の総人類が、助かっていけれる、幸せになって行けれる道を、楽しゅう、有難く説いていく道。しかも御徳を頂いていく道。あの世にも持っていかれこの世にも残しておけれるという道。もうこれほど書き口説くように最近は説かれておる。これがみんなに伝わらないと言う事は、まあなんと言う残念なことだろうか。これが伝わらないはずは無いという確信を持ちながら話しながら、どしてこんなに浸透していかないだろうか、と言う様なまあ私は最近思いにもう、目を瞑るとそう言う事を思うんです。
だからこういう素晴らしい助かりの理念を持っておる合楽理念を、どうかして世界中の人達に分かって貰える手立てはないものかと、まあ思う訳ですけれどもですね。一生を掛けられて、沢山なほんなら弟子もできられたであろう、それに対する共鳴者も出来たであろう。その芯をなされたほんなら、内村鑑三さんが晩年には自分がもし、キリスト教というものに縁がなかって、キリスト教の信者でなかったなら、自分はもっとましな人間的な幸せ、いうならばこの世でも極楽の心を開き、有難い勿体ないの心を開き。
あの世にも持っていけれるほどしのものが、もしあると分かり納得されたら、内村鑑三さんは、当時もし椛目が合楽があったならば、合楽に傾倒されたかも知れないという風に思うですね。その教えの例えば偉大さというか、その普遍性に富んでおるというか、人間が本当に幸せになって行くためにはという観点から言うたら、もうそれこそ今の合楽で説かれておる事はもう、一分の隙もないほどしに素晴らしいことなんです。みんながその気になればですよ。
けども幾ら頂いておっても、はあなるほどと聞いておるだけで、それを自分のものにもしないならば、幾ら合楽の中に浸っておったっちゃ駄目なんです。私は最近研修の時にはもう、そこん所を大いに焦点を置いて、まあ一生懸命皆さんに聞いてもらいます。やろうと思えば誰でもやれれる信心。しかもそれをやる気になったら、そこに一つの天地のリズムが生まれてきて楽しゅうなる。愉快になる。もちろん有難うなる。そういう信心をさせて頂こうと私は一生懸命なっておるわけです。
だからそういう信心が、もしあの金光教の中に浸透していったら、金光教の流れが変わるだろう。世界中の宗教の流れが変わるだろう。もう一遍これは言うなら教えの頂き直しをしなければならない。それこそ内村鑑三さんの、二の舞を踏むような信心は、もういけないと言う事にもなるだろう。昨日池田先生が、お届けを致しました。あの御本部に修行中に、本部に時々見えるまあ、大変変わったお坊さんがおられる。そのお坊さんの名をげずそ牟尼仏という。
自分はどこで生まれてどこで育って、どこのもんか自分で分からんと言うて、まあそれは極秘に極秘というか、そう言う風な言い方をされる先生らしい、坊さんらしい。そして非常にやっぱり宗教色々の宗教を研究し勉強した方らしい。そして放浪の旅を続けておる人らしい。たまたま御本部に来るとそこで、一ヶ月も二ヶ月もその学院生達と色々な信心の交流を計ったりして、まあ行かれるまあ言うなら何と申しましょうかね。もうそれこそ欲も得もない。
ただあのさすらいながら仏教を研修しておる、一坊さんと言う事になるでしょう。はあなかなか言うておられることが、言うておる何というですか、無欲淡々なところにまあ魅力があるのでしょう。みんながやっぱりその時々どこどこにおって、お金に困っておるから五千円送ってくれ、一万円送ってくれち言うて来なさる。うちの修行生知ったつはだから、千円づつなら千円づつ集めて送ってやりよるです。でその送ってやっても惜しくないような感じの、だから人らしいんです。
もうそれこそ何か飄々たるという感じの人らしいんですね。その方から昨日手紙かハガキが来てる訳です。この前の手紙にはあの私のテープを繰り返し聞かれるらしいんですけれども、この先生は大変そのちょっぴり、うぬぼれの強い先生だと、この人を教祖様にしないという、したら素晴らしいだろうと言った様な事が書いてあるです。私の話は本当にうぬぼれを感じるほどしでしょうね。
今聞いて頂いた事だけでもそうでしょう。私の信心が浸透していく、浸透していくだけのいうならば、浸透性というか普遍性を持っておる。しかも人間が助かることのために。それは教団がその気になれば、教団の流れが変わるだろう。宗教者が一度本気で素直に合楽理念を聞いたら、もう全宗教のいうならば流れが変わるだろう。しかも世界の国々のどこの人間でも助かられる。しかもあの世にも持って行け、この世にも残しておけるというほどしのおかげの受けられる信心だと。
それをこのようにだろうがと、実証しながら話しておると言う事は、それは確かに素晴らしいことであると同時に、それを脇から見たらもうちょっとうぬぼれの強い先生じゃあるという風に、やっぱり見えたり聞こえたりするかも知れませんですね。だから合楽の話はそれこそ鹿児島の一木先生じゃないですけれども、初日の日はとにかく先生貴方は、合楽合楽という事を言い過ぎなさるというふうな言い方をしておったけども、一晩泊まってゆっくり研修していくうちに、なるほど聞くとみるとは大相違。
それこそ百聞は一見にしからずと言った様に、まあ合楽に対する一つの帰依の言葉です。だから合楽の信心は本当に、自分の身に着けてみなければ、接してみなければ分からんです。だからそれを接するだけでなくそれを本当にです、接しただけでもああほんなこつ、そうだとこう思わせるくらいな事は、みんなが思うだろうけれども、それを自分のものにして徳にして行くという、言うなら梅の花の信心が出来なければ、また値打ちは無いと言う事になるのです。
昨日そのハガキの中に、大変気に懸かることが書いてある。というのは何時もとは違って、そのなな七という字を二つ並べて書いてある。七七そして最後に仏と書いてある。そして夏は暑いものだと。もう相場が決っておるという意味の事でしょう。夏は暑い何かいわば悟り済ましたような言葉がこう書いてある。けれども最後の七七というその字が気に懸かってたまらん。最後に仏これがまた気になる。どこぞにまあ行き倒れ寸前のような感じを私も感じたんです。
だから例えば仏教的で言うところのです。いうなら「いるだけは、風が持て来る木の葉かな。」これは素晴らしいですけれども、例えばその程度から、一歩も前進せんのが仏教なんです。竜安寺のあのお手洗いの有名なね。「吾ただ足るを知る」という手洗い鉢があります。どういう例えばお粥食一食だけでもです。毎日食べられておれば、不平も言わん、不足も言わんと言う事です。金光教の信心はそういう信心から、もう一歩前進しているです。言うなら大我が生まれ大欲が生まれてくるです。
自分というものを虚しゅうしていくと言うなら私共が、梅鉢じゃないけれども、この梅鉢が取れたからどんどんなんぼでも大きくなれれるです。そして、合楽の世界に住もうとするのです。自分だけの助かりではなくていいえ自分が。それこそ沢山な物にも金にも不自由しない。人間の幸せの条件が足ろうてきてその足ろうた信心を。世界中にでも広げていこうかと言うのが、金光教の信心ですから、違うのでしょう。いうならば、大我が生まれてくるです。大欲が生まれてくるんです。
それは神様の我でもあろうか、神様のお欲でもあろうかと言う様な欲が、こう瑞々しくもりもりと湧いて来るんです。金光教の信者はこれだけでも、いうならば素晴らしいです。内村鑑三さんといい、その何とか無二物さんといい、そこまでしか到達できない。いうならば、全ての宗教の中にです。本当に人間が助かることの出来る信心。助かることの手立てを説くのが合楽理念。そこでほんなら私共合楽の信奉者が、どこをどう頂かなければならないかというと。
昨日研修の時に今村和子先生が、こういう発表を致しておりました。「親先生私はここであのくのいち修行と言う事が言われる、その前にくのいち修行と言う事を頂いておった。ところが何か恥ずかしい事のごたったから、とうとう言いそびれておった」と言うて、その昨日発表するんです。そしてくのいち修行はね。くのいち修行は月光菩薩と頂いておった。だから私それを頂いて大変感動したです。金光合楽の信心は何処までもですいうならば生仏様であり、生神様を目指すのが金光教の信心です。
だからくのいち修行をさしてもらや、言うなら神の位も、仏の位も頂けるほどしのことなんです。月光と言う事が素晴らしいです。太陽を天地の親神様とするなら、月をいうならば人間と。月そのものには光りはないけれども、それが満月のように、いわゆる月光である。月の光が昼の光りを欺くような光りを放つことも出来る。それは太陽の光を受けて反射する光りなのです。
ためには私共がいよいよ、丸うならにゃいけん満月のように。満月菩薩になれれる、そういうあの例えばくのいち修行は、満月のような心にもなれれる手立て。または月光菩薩という神格をいただけるほどしのことだと言う事。しかもね素晴らしいことは、ちくわとてんぷらの煮付けを次に頂いとるです。これがいうならあの、くのいちと言う事でしょう。そのくという字が本当のくではなくても、苦いわゆる修行と受けて下さる、女という字を書いて言うなら、私が頂いた女という字は。
もうやっとかっと女と読めれる様な事である。私共がその気にならせて貰って、本気でくのいち修行を身に付けようという、いうならば心を起こして、くのいち修行に徹していくならばです、いうならば今日の御理解でいうと、梅の花の信心であり、いうなら実る信心であり、あの世にも持って行ける信心であり、この世にも残しておける信心というほどしのものがいただけるんです。合楽の御理解を一つです、それを身を持って行ずるならばです。このちくわとてんぷらと言う事がです。
いうならその私が頂いた、くのいちという意味になるのです。例えばてんぷらと言う事は、ほんなものじゃ無いという意味なんですよね。てんぷら工事というのは、ほんなものじゃない工事という意味なんです。私共のそのくのいち修行が、本当な事じゃないけれども、もうくのいち修行に極まったという風に心の中に、しっかり頂いて出来んなりにでも、曲りなりにでも、それを行じていこうとするとです。
神様がちくわを食べて下さって、いうなられんこん食うて下さって、向こう先見て下さって、しかも出来たかのようにおかげを下さる。それがこの頃くのいちの説明でしたよね。その通りの事を別な表現で頂いておるんです。今の合楽で信心をさせてもらい。いうならば、合楽理念を元にした生き方をさせてもらい。本気で家業の行を行とし、心行を心行として、日参的信心を、例えば、心掛けさせていただいて、そういう教えを焦点に進めていくならばです。
晩年になって、もし自分が金光教の信者でなかったならばと言う様な事は言わんですむことになる。だから金光教の信心は、でも難しい風にいただいてです、一生ほんならうだつの挙がらない、それこそ犬死的修行であったとするならばです、自分な金光教の信者でなかったならば、もちっとましな生活でも出来たかも知れんという風に言うかも知れませんよ、やっぱり。だから本当の意味においての、大成一番言うなら命を懸けての宗教であるならばです。合楽理念にかけよと。
くのいち修行にかけよと。そこから生まれてくるリズムに乗っての生き方。あの世にもこれならば持っていけれる。これならばこの世にも確かに残していけれるだろうと思えれるほどしの信心。お互い、月光菩薩を目指さなければならん。人間のことですから、どこにお粗末があるやら、御無礼があるやら分からんのだけれども、その焦点を間違えずに、そこを持って進むならばです。
例えそれは、間違っても、出来損のうても、たまには御無礼お粗末があっても、それを出来たかのように、ちくわと言う事は、こうやって、向こう先見るとですよ。神様がれんこん食うて下さって、出来たかのようにおかげを下さると言う事を、和子さんが頂いております。だからね如何に例えば、合楽におるからと言うて、ほんならあのみんながそれを頂けると言う事ではない。頂いたものが自分の身に付かなければ。本当に信心とは楽しゅう、有難いものにしていかなければ。
そういう信心にいうならば掛けると言う事。この道をゆけば絶対だと、私が言っておる、その絶対の道に掛けると言う事。そしてその信心を身につけていくならばです。それがまさしく梅の花の信心というのじゃないでしょうか。桜の花の信心をただおかげだけの信心というならば、今日の御理解でいうと。牟尼何とか物じゃったの。げずそ牟尼仏さん。または、キリスト教の内村鑑三という先生が、命を懸けられたけれども、焦点が間違っておったと言う事になるのじゃないでしょうか。
合楽でもはっきり焦点が、こう焦点が打ち出されておるのですから。その焦点に向かって例えばあなた方が、一生合楽に参ったって焦点なしに、ただ参ってくるだけならだから、本当なおかげにはならない。梅の花の信心にはならない。梅の花の信心とは、実る信心。あの世にも持っていける、この世にも残しておけるというほどしのものが身に付いていく信心。しかもやる気になれば、誰でも頂けれるように説き明かしてあるのが合楽理念だと言う事を、もう一遍、改めて合楽理念を頂きなおさなければならんと思うですね。
どうぞ。